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第4話 黒い獣の森

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-27 08:28:09

第4話 黒い獣の森

 黒狼は、一度も吠えなかった。

 牙を剥いて威嚇することも、身を低くして飛びかかる素振りを見せることもない。

 ただ、暗い金色の瞳で、剣を振り上げた男を見ていた。

 その静けさが、咆哮よりも恐ろしかった。

 刺客の腕が震える。

「なぜ、ここに……」

 掠れた声とともに、男は後ずさった。

 黒狼の前脚が雪を踏む。

 僅か一歩だった。

 それだけで二頭の間にあった距離が消えた。

 男が剣を横へ薙ぐ。銀嶺狼群《ルーメル》の紋を刻んだ刃は黒い毛先を掠めることすらできず、空を切った。

 次の瞬間には、男の身体が雪の上へ叩き伏せられていた。

「ぐっ……!」

 黒狼の前脚が胸元を押さえつける。

 革鎧が軋んだ。

 その下から、骨の耐える鈍い音がした。

 男は剣を取り落とし、両手で巨大な前脚を押し返そうとする。だが、岩を動かそうとしているようなものだった。黒狼は力を込めた様子さえなく、刺客の身体を雪へ沈めている。

 リュシエナは針葉樹の根へ背を預けたまま、声も出せずに見ていた。

 逃げなければならない。

 目の前の獣が刺客を殺している間に、少しでも遠くへ。

 頭では分かっているのに、膝から下は冷えと失血で感覚を失っていた。指先は母の外套を掴んだ形のまま固まり、浅い呼吸を繰り返すたび背の傷が脈打つ。

 黒狼が僅かに顔を下げた。

 太い牙が、男の喉へ近づく。

 刺客の目が恐怖に見開かれた。

 その時、森の奥で雪を踏み荒らす音がした。

 二つ。

 沢の向こうへ残った銀狼たちが、血と仲間の匂いを追ってきたのだ。

 針葉樹の間から現れた二頭は、刺客を見て唸った。一頭は目を涙で濡らし、もう一頭の銀毛には細い枝が絡んでいる。

 左右へ分かれ、黒狼を囲もうとする。

 しかし、黒狼が顔を上げた瞬間、二頭の足が同時に止まった。

 森の空気が変わった。

 雪を孕んだ風が途絶え、垂れ下がっていた枝さえ凍りついたように動かなくなる。

 目には見えない重みが、地面へ落ちた。

 リュシエナの肺も強く圧迫される。傷の痛みとは違う。身体の内側に存在するはずの獣魂が、圧倒的な力を前にひれ伏そうとしている。

 目覚めていないはずのものが、胸の奥で小さく身を縮めた。

 アルファの威圧。

 ローディクの就任式でも感じなかったほど濃く、古い森そのものへ染み込んだ力だった。

 二頭の銀狼は耳を伏せ、腹が雪へつきそうなほど身を低くした。牙を見せるどころか、まともに黒狼の目を見ることさえできない。

 一頭が耐えきれず、後ろ足を引いた。

 次いで身を翻し、来た道へ逃げ出す。

 黒狼は追わなかった。

 逃げる銀狼へ一度だけ視線を向け、それだけで国境の外まで追い立てるように低い息を吐く。

 残された一頭は恐怖に耐えかねたのか、甲高い唸り声を上げて飛びかかった。

 黒狼の前脚が刺客の胸から離れる。

 銀狼の牙が届くより早く、巨大な影が動いた。

 雪が弾ける。

 黒狼は相手の横をすり抜け、その肩口へ牙を立てた。骨を噛み砕くことも、喉を裂くこともできたはずなのに、牙は肩の筋肉だけを正確に捉えている。

 銀狼が苦痛の声を上げ、雪へ倒れた。

 起き上がろうとしても、片方の前脚が動かない。

 黒狼は追撃しなかった。逃げられないことを確かめると、再び刺客の方へ戻っていく。

 刺客は雪の上を這い、落とした剣へ手を伸ばしていた。

 黒狼の前脚が、その手首を踏む。

 男の指から剣が離れた。

 黒狼が男の喉元へ鼻先を寄せた。唇の下から牙が現れ、柔らかな首の皮膚へ触れる。

 そのまま顎を閉じれば、命は一息で失われる。

 リュシエナの胸に恐怖が込み上げた。

 自分を殺そうとした男だ。

 門から追い出したあとも執拗に追い、狼の爪で背を裂き、最後には剣を振り下ろそうとした。

 それでも、ここで死なせてはいけない。

 彼は命令を受けたと言った。

 追放が最初から殺害のためだったと知っている。生きたまま捕らえれば、誰が命じたのかを聞き出せるかもしれない。

 何より、目の前で喉を食い破られる光景を見届ければ、自分の中にも二度と消えないものが残る気がした。

「待って……」

 声は吐息ほどにしかならなかった。

 黒狼の耳が動く。

 リュシエナは濡れた幹へ手をつき、震える身体を僅かに起こした。

「その人から、誰の命令か聞かなければ……」

 黒狼がこちらを見た。

 暗い金色の瞳と目が合う。

 獣の目だった。

 人の道理も、敵国の言葉も通じないはずの、恐ろしい黒い獣。

 リュシエナは息を止めた。

 自分の声など届くはずがない。そう思った直後、黒狼は再び刺客へ目を戻した。

 喉へ触れていた牙が離れる。

 男が安堵の息を漏らす間もなく、その牙は肩口へ移った。

 革鎧の継ぎ目を貫き、深く噛み込む。

「あああっ!」

 刺客の絶叫が木々を震わせた。

 黒狼は一度だけ頭を振った。男の身体が雪の上を転がり、太い樹木の幹へ背を打ちつける。

 息を詰まらせた男は、そのまま動かなくなった。

 死んではいない。

 微かに胸が上下している。

 黒狼は彼を殺さなかった。

 リュシエナの言葉を聞いたのだ。

 その事実の方が、牙を剥かれるよりも理解できなかった。

「どうして……」

 問いは最後まで続かなかった。

 黒狼がこちらへ向き直ったからだ。

 一歩近づくたび、大きな脚が雪へ深く沈む。

 その身体は、近くで見るほど現実離れしていた。厚い胸、闇を流したような毛並み、鋭く立った耳。顔だけでもリュシエナの上半身ほどあり、牙の間には刺客の血が残っている。

 逃げなければならない。

 だが、身体はもう命令を聞かなかった。

 根元へ背を押しつけても、これ以上下がる場所はない。

 リュシエナは薬草袋へ手を伸ばした。中に砕き根が残っていたとしても、この獣へ効くとは思えない。それでも何もせずに喉を差し出すことだけはできなかった。

 黒狼の視線が、動いた手を追う。

 鼻先から低い息が漏れる。

 リュシエナの指が止まった。

「私も、殺しますか」

 自分でも不思議なほど、声は静かだった。

 黒狼は答えない。

 さらに近づく。

 黒い鼻先が、リュシエナの頬へ向けられた。

 匂いを確かめている。

 血か。

 銀嶺の匂いか。

 あるいは、濡れた外套に残る母の乾燥花の香りか。

 黒狼は彼女の顔へは触れなかった。

 鼻先が頬の横を通り、首筋へ下りていく。

 月環を外されたばかりの傷がある場所だった。

 リュシエナの肩が強張る。

 四年間、銀の輪があった場所。ローディクの指に裂かれ、血を流し、黒い染みのついた月環が締めつけていた場所。

 そこへ黒狼の熱い吐息が触れた。

 焼けるような熱が、傷から身体へ入り込む。

 黒狼の巨体が硬直した。

 暗い金色の瞳が見開かれる。

 鼻先が僅かに持ち上がり、もう一度、傷の匂いを深く吸い込む。

 獣の奥から、押し殺した唸り声が漏れた。

 刺客へ向けたものとは違う。

 怒りではない。

 獲物を前にした飢えとも違った。

 もっと深く、獣自身さえ戸惑っているような音だった。

 リュシエナの胸の奥で、何かが脈打った。

 どくり、と。

 一度。

 また一度。

 冷えきっていた身体の中心に、小さな火が灯る。

 喉の傷から胸へ、胸から腹の底へ、見えない熱が細い筋となって広がっていく。痛みでも、熱による錯覚でもない。長いあいだ空虚だった場所で、眠り続けていた何かが身じろぎした。

 黒狼の呼吸と、自分の鼓動が重なる。

 怖い。

 そう思っているのに、目を逸らせなかった。

 暗い金色の瞳の奥に、孤独な獣がこちらを見返している。

 黒狼が鼻先を離した。

 リュシエナの胸から、熱が引き抜かれるような感覚がした。

 獣は彼女を見下ろしたまま、しばらく動かない。

 やがて何かを決めるように耳を立てると、倒れた刺客と銀狼へ視線を巡らせた。

 それから踵を返し、木々の奥へ歩いていく。

「待って……」

 思わず声が出た。

 なぜ呼び止めたのか、自分でも分からない。

 見逃されたのなら、安堵するべきだった。

 けれど、黒い巨体が森の影へ溶けると、先ほどまで感じていた熱まで消えていく気がした。

 黒狼は振り返らなかった。

 針葉樹の向こうへ姿を消す。

 森には、刺客の浅い呼吸と、肩を傷つけられた銀狼の呻きだけが残った。

 リュシエナは息を吐き、樹木の根へ身体を預けた。

 助かった。

 そう思った途端、張りつめていたものが切れた。

 視界の端が暗くなる。指から力が抜け、母の外套の合わせ目が開いた。雪の冷気が濡れた礼装へ入り込む。

 このままでは凍える。

 分かっていても、身体を起こせない。

 木々の奥から、再び音がした。

 今度は、二本の足で雪を踏む音だった。

 リュシエナは僅かに身を強張らせる。

 現れたのは、黒い外套を纏った男だった。

 長身だった。

 針葉樹の枝へ触れそうなほど高い背に、鍛えられた厚い肩。夜色の髪には雪が絡み、溶けた雫が左の眉から頬へ伸びる薄い傷を伝っている。

 暗い金色の瞳だけが、先ほどの黒狼と同じ光を宿していた。

 リュシエナは息を呑んだ。

 男が一歩近づく。

 雪を踏む重い足音まで、獣の歩みと似ている。

「あなたが……」

 言葉を最後まで口にする前に、男は肩から自分の外套を外した。

 リュシエナは反射的に腕を上げる。

「近づかないで」

 男の動きが止まった。

 怒る様子はない。

 黒い外套を手にしたまま、彼女が腕を下ろすのを待っている。

「凍える」

 低い声だった。

 多くを説明せず、事実だけを告げる声。

「捕虜にするのですか」

「今はしない」

「今は?」

「お前が生きていなければ、捕虜にも客にもできん」

 男はそう言い、外套を差し出した。

 リュシエナはすぐには受け取らなかった。男の手は大きく、指には古い傷がいくつも走っている。先ほどまで銀狼を押さえ込んでいた前脚を思い出した。

 それでも、その手は彼女を掴もうとはしない。

 外套だけを、届く距離で差し出している。

 リュシエナが震える指を伸ばすと、男は初めて近づいた。

 濡れて裂けた母の外套ごと包むように、黒い外套を肩へ掛ける。

 乾いた毛皮の温かさが、冷えた身体へ染み込んだ。

 雪と針葉樹、それに僅かな鉄の匂いがする。

「名は」

 唐突に問われ、リュシエナは外套の前を押さえた。

「……もう、名乗る群れはありません」

 追放命令が蘇る。

 フェルディス家の名を二度と使うな。

 銀嶺の記録簿では、彼女の名に赤い線が引かれた。二十年間属していた場所は、もう自分を存在しない者として扱っている。

 男の眉が僅かに寄る。

「群れではない」

 低い声が、静かな森へ落ちた。

「お前の名を聞いた」

 リュシエナは彼を見上げた。

 どこの群れか。

 誰の娘か。

 何の役に立つのか。

 そうではなく、自分自身を呼ぶための名を求められている。

 あまりにも久しく、そのように尋ねられたことがなかった。

「……リュシエナ」

「そうか」

 男は一度、その音を記憶するように目を細めた。

「リュシエナ」

 二度目は、確かめるような呼び方だった。

 胸の奥の熱が、また小さく脈打つ。

 男の視線が、首の傷から背中へ移る。雪の上に落ちた血と、沢の水で濡れた衣服を見て、表情がさらに険しくなった。

「傷を見る」

「触らないでください」

「ならば触れない。だが、ここへ置いてはいけない」

 男は一度、森の奥へ顔を向けた。遠方から複数の足音が近づいている。

 リュシエナには聞こえないほど微かな音を、獣の耳で捉えたのだろう。

 彼は再び彼女へ向き直った。

「抱き上げる」

 命令に近い短さだった。

 それでも、不意に身体を掴むことはしなかった。何をするのかを告げ、リュシエナが拒むための僅かな時間を残している。

「歩けます」

 そう言って根元へ手をついた。

 腕に力を込める。

 身体は少しも持ち上がらなかった。

 男は責めなかった。

「歩けない」

 淡々と事実を訂正する。

 リュシエナは反論しようとしたが、唇が震えるばかりで声にならない。

 彼女が目を伏せたのを待ち、男は片腕を膝の下へ、もう一方を傷へ触れないよう背の上部へ差し入れた。

 身体が雪から浮く。

 驚くほど揺れなかった。

 硬い胸へ抱き上げられ、黒い外套の内側へ包まれる。男の体温は、先ほどの黒狼の吐息と同じほど熱かった。

 恐怖は消えていない。

 それでも、ローディクに月環を外された時より、刺客に追われた時より、呼吸が深く入った。

「どうして、私を……」

 問いかける声は、男の胸元へ吸い込まれた。

 暗い金色の目が彼女を見下ろす。

「死ぬ許可を出した覚えはない」

「私は、あなたの許可を受ける者では……」

「ならば、生きる方を自分で選べ」

 言葉は冷たいほど簡潔だった。

 けれど、彼の腕は背の傷を圧迫しないよう、僅かに位置を変えている。

 リュシエナは返事をしようとした。

 その前に、遠くから複数の黒い影が駆けてきた。

 雪を蹴り上げ、木々の隙間を縫うように進む黒狼たち。

 先頭の一頭が数歩手前で急停止する。黒い毛並みが沈み、骨格が変わり、人の姿へ戻っていく。

 現れた男は雪の上へ片膝をついた。

「ヴァルゼイン陛下。ご無事で」

 陛下。

 その呼び名が、薄れゆく意識の中へ落ちた。

 黒曜狼国《ヴァルグラッド》を統べ、全ての群れから月を喰らう王と恐れられる男。

 黒狼王、ヴァルゼイン・ノクスハルト。

 自分を抱いている男が、敵国の王。

 理解した途端、張りつめていた意識が深い闇へ沈み始めた。

 最後に感じたのは、遠ざかっていく雪の冷たさだった。

 そして、名前を呼ぶ低い声。

「リュシエナ。眠るな」

 命令する声とは裏腹に、頬へ触れず熱を確かめようとする吐息だけが、ひどく近くにあった。

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