LOGIN第4話 黒い獣の森
黒狼は、一度も吠えなかった。
牙を剥いて威嚇することも、身を低くして飛びかかる素振りを見せることもない。
ただ、暗い金色の瞳で、剣を振り上げた男を見ていた。
その静けさが、咆哮よりも恐ろしかった。
刺客の腕が震える。
「なぜ、ここに……」
掠れた声とともに、男は後ずさった。
黒狼の前脚が雪を踏む。
僅か一歩だった。
それだけで二頭の間にあった距離が消えた。
男が剣を横へ薙ぐ。銀嶺狼群《ルーメル》の紋を刻んだ刃は黒い毛先を掠めることすらできず、空を切った。
次の瞬間には、男の身体が雪の上へ叩き伏せられていた。
「ぐっ……!」
黒狼の前脚が胸元を押さえつける。
革鎧が軋んだ。
その下から、骨の耐える鈍い音がした。
男は剣を取り落とし、両手で巨大な前脚を押し返そうとする。だが、岩を動かそうとしているようなものだった。黒狼は力を込めた様子さえなく、刺客の身体を雪へ沈めている。
リュシエナは針葉樹の根へ背を預けたまま、声も出せずに見ていた。
逃げなければならない。
目の前の獣が刺客を殺している間に、少しでも遠くへ。
頭では分かっているのに、膝から下は冷えと失血で感覚を失っていた。指先は母の外套を掴んだ形のまま固まり、浅い呼吸を繰り返すたび背の傷が脈打つ。
黒狼が僅かに顔を下げた。
太い牙が、男の喉へ近づく。
刺客の目が恐怖に見開かれた。
その時、森の奥で雪を踏み荒らす音がした。
二つ。
沢の向こうへ残った銀狼たちが、血と仲間の匂いを追ってきたのだ。
針葉樹の間から現れた二頭は、刺客を見て唸った。一頭は目を涙で濡らし、もう一頭の銀毛には細い枝が絡んでいる。
左右へ分かれ、黒狼を囲もうとする。
しかし、黒狼が顔を上げた瞬間、二頭の足が同時に止まった。
森の空気が変わった。
雪を孕んだ風が途絶え、垂れ下がっていた枝さえ凍りついたように動かなくなる。
目には見えない重みが、地面へ落ちた。
リュシエナの肺も強く圧迫される。傷の痛みとは違う。身体の内側に存在するはずの獣魂が、圧倒的な力を前にひれ伏そうとしている。
目覚めていないはずのものが、胸の奥で小さく身を縮めた。
アルファの威圧。
ローディクの就任式でも感じなかったほど濃く、古い森そのものへ染み込んだ力だった。
二頭の銀狼は耳を伏せ、腹が雪へつきそうなほど身を低くした。牙を見せるどころか、まともに黒狼の目を見ることさえできない。
一頭が耐えきれず、後ろ足を引いた。
次いで身を翻し、来た道へ逃げ出す。
黒狼は追わなかった。
逃げる銀狼へ一度だけ視線を向け、それだけで国境の外まで追い立てるように低い息を吐く。
残された一頭は恐怖に耐えかねたのか、甲高い唸り声を上げて飛びかかった。
黒狼の前脚が刺客の胸から離れる。
銀狼の牙が届くより早く、巨大な影が動いた。
雪が弾ける。
黒狼は相手の横をすり抜け、その肩口へ牙を立てた。骨を噛み砕くことも、喉を裂くこともできたはずなのに、牙は肩の筋肉だけを正確に捉えている。
銀狼が苦痛の声を上げ、雪へ倒れた。
起き上がろうとしても、片方の前脚が動かない。
黒狼は追撃しなかった。逃げられないことを確かめると、再び刺客の方へ戻っていく。
刺客は雪の上を這い、落とした剣へ手を伸ばしていた。
黒狼の前脚が、その手首を踏む。
男の指から剣が離れた。
黒狼が男の喉元へ鼻先を寄せた。唇の下から牙が現れ、柔らかな首の皮膚へ触れる。
そのまま顎を閉じれば、命は一息で失われる。
リュシエナの胸に恐怖が込み上げた。
自分を殺そうとした男だ。
門から追い出したあとも執拗に追い、狼の爪で背を裂き、最後には剣を振り下ろそうとした。
それでも、ここで死なせてはいけない。
彼は命令を受けたと言った。
追放が最初から殺害のためだったと知っている。生きたまま捕らえれば、誰が命じたのかを聞き出せるかもしれない。
何より、目の前で喉を食い破られる光景を見届ければ、自分の中にも二度と消えないものが残る気がした。
「待って……」
声は吐息ほどにしかならなかった。
黒狼の耳が動く。
リュシエナは濡れた幹へ手をつき、震える身体を僅かに起こした。
「その人から、誰の命令か聞かなければ……」
黒狼がこちらを見た。
暗い金色の瞳と目が合う。
獣の目だった。
人の道理も、敵国の言葉も通じないはずの、恐ろしい黒い獣。
リュシエナは息を止めた。
自分の声など届くはずがない。そう思った直後、黒狼は再び刺客へ目を戻した。
喉へ触れていた牙が離れる。
男が安堵の息を漏らす間もなく、その牙は肩口へ移った。
革鎧の継ぎ目を貫き、深く噛み込む。
「あああっ!」
刺客の絶叫が木々を震わせた。
黒狼は一度だけ頭を振った。男の身体が雪の上を転がり、太い樹木の幹へ背を打ちつける。
息を詰まらせた男は、そのまま動かなくなった。
死んではいない。
微かに胸が上下している。
黒狼は彼を殺さなかった。
リュシエナの言葉を聞いたのだ。
その事実の方が、牙を剥かれるよりも理解できなかった。
「どうして……」
問いは最後まで続かなかった。
黒狼がこちらへ向き直ったからだ。
一歩近づくたび、大きな脚が雪へ深く沈む。
その身体は、近くで見るほど現実離れしていた。厚い胸、闇を流したような毛並み、鋭く立った耳。顔だけでもリュシエナの上半身ほどあり、牙の間には刺客の血が残っている。
逃げなければならない。
だが、身体はもう命令を聞かなかった。
根元へ背を押しつけても、これ以上下がる場所はない。
リュシエナは薬草袋へ手を伸ばした。中に砕き根が残っていたとしても、この獣へ効くとは思えない。それでも何もせずに喉を差し出すことだけはできなかった。
黒狼の視線が、動いた手を追う。
鼻先から低い息が漏れる。
リュシエナの指が止まった。
「私も、殺しますか」
自分でも不思議なほど、声は静かだった。
黒狼は答えない。
さらに近づく。
黒い鼻先が、リュシエナの頬へ向けられた。
匂いを確かめている。
血か。
銀嶺の匂いか。
あるいは、濡れた外套に残る母の乾燥花の香りか。
黒狼は彼女の顔へは触れなかった。
鼻先が頬の横を通り、首筋へ下りていく。
月環を外されたばかりの傷がある場所だった。
リュシエナの肩が強張る。
四年間、銀の輪があった場所。ローディクの指に裂かれ、血を流し、黒い染みのついた月環が締めつけていた場所。
そこへ黒狼の熱い吐息が触れた。
焼けるような熱が、傷から身体へ入り込む。
黒狼の巨体が硬直した。
暗い金色の瞳が見開かれる。
鼻先が僅かに持ち上がり、もう一度、傷の匂いを深く吸い込む。
獣の奥から、押し殺した唸り声が漏れた。
刺客へ向けたものとは違う。
怒りではない。
獲物を前にした飢えとも違った。
もっと深く、獣自身さえ戸惑っているような音だった。
リュシエナの胸の奥で、何かが脈打った。
どくり、と。
一度。
また一度。
冷えきっていた身体の中心に、小さな火が灯る。
喉の傷から胸へ、胸から腹の底へ、見えない熱が細い筋となって広がっていく。痛みでも、熱による錯覚でもない。長いあいだ空虚だった場所で、眠り続けていた何かが身じろぎした。
黒狼の呼吸と、自分の鼓動が重なる。
怖い。
そう思っているのに、目を逸らせなかった。
暗い金色の瞳の奥に、孤独な獣がこちらを見返している。
黒狼が鼻先を離した。
リュシエナの胸から、熱が引き抜かれるような感覚がした。
獣は彼女を見下ろしたまま、しばらく動かない。
やがて何かを決めるように耳を立てると、倒れた刺客と銀狼へ視線を巡らせた。
それから踵を返し、木々の奥へ歩いていく。
「待って……」
思わず声が出た。
なぜ呼び止めたのか、自分でも分からない。
見逃されたのなら、安堵するべきだった。
けれど、黒い巨体が森の影へ溶けると、先ほどまで感じていた熱まで消えていく気がした。
黒狼は振り返らなかった。
針葉樹の向こうへ姿を消す。
森には、刺客の浅い呼吸と、肩を傷つけられた銀狼の呻きだけが残った。
リュシエナは息を吐き、樹木の根へ身体を預けた。
助かった。
そう思った途端、張りつめていたものが切れた。
視界の端が暗くなる。指から力が抜け、母の外套の合わせ目が開いた。雪の冷気が濡れた礼装へ入り込む。
このままでは凍える。
分かっていても、身体を起こせない。
木々の奥から、再び音がした。
今度は、二本の足で雪を踏む音だった。
リュシエナは僅かに身を強張らせる。
現れたのは、黒い外套を纏った男だった。
長身だった。
針葉樹の枝へ触れそうなほど高い背に、鍛えられた厚い肩。夜色の髪には雪が絡み、溶けた雫が左の眉から頬へ伸びる薄い傷を伝っている。
暗い金色の瞳だけが、先ほどの黒狼と同じ光を宿していた。
リュシエナは息を呑んだ。
男が一歩近づく。
雪を踏む重い足音まで、獣の歩みと似ている。
「あなたが……」
言葉を最後まで口にする前に、男は肩から自分の外套を外した。
リュシエナは反射的に腕を上げる。
「近づかないで」
男の動きが止まった。
怒る様子はない。
黒い外套を手にしたまま、彼女が腕を下ろすのを待っている。
「凍える」
低い声だった。
多くを説明せず、事実だけを告げる声。
「捕虜にするのですか」
「今はしない」
「今は?」
「お前が生きていなければ、捕虜にも客にもできん」
男はそう言い、外套を差し出した。
リュシエナはすぐには受け取らなかった。男の手は大きく、指には古い傷がいくつも走っている。先ほどまで銀狼を押さえ込んでいた前脚を思い出した。
それでも、その手は彼女を掴もうとはしない。
外套だけを、届く距離で差し出している。
リュシエナが震える指を伸ばすと、男は初めて近づいた。
濡れて裂けた母の外套ごと包むように、黒い外套を肩へ掛ける。
乾いた毛皮の温かさが、冷えた身体へ染み込んだ。
雪と針葉樹、それに僅かな鉄の匂いがする。
「名は」
唐突に問われ、リュシエナは外套の前を押さえた。
「……もう、名乗る群れはありません」
追放命令が蘇る。
フェルディス家の名を二度と使うな。
銀嶺の記録簿では、彼女の名に赤い線が引かれた。二十年間属していた場所は、もう自分を存在しない者として扱っている。
男の眉が僅かに寄る。
「群れではない」
低い声が、静かな森へ落ちた。
「お前の名を聞いた」
リュシエナは彼を見上げた。
どこの群れか。
誰の娘か。
何の役に立つのか。
そうではなく、自分自身を呼ぶための名を求められている。
あまりにも久しく、そのように尋ねられたことがなかった。
「……リュシエナ」
「そうか」
男は一度、その音を記憶するように目を細めた。
「リュシエナ」
二度目は、確かめるような呼び方だった。
胸の奥の熱が、また小さく脈打つ。
男の視線が、首の傷から背中へ移る。雪の上に落ちた血と、沢の水で濡れた衣服を見て、表情がさらに険しくなった。
「傷を見る」
「触らないでください」
「ならば触れない。だが、ここへ置いてはいけない」
男は一度、森の奥へ顔を向けた。遠方から複数の足音が近づいている。
リュシエナには聞こえないほど微かな音を、獣の耳で捉えたのだろう。
彼は再び彼女へ向き直った。
「抱き上げる」
命令に近い短さだった。
それでも、不意に身体を掴むことはしなかった。何をするのかを告げ、リュシエナが拒むための僅かな時間を残している。
「歩けます」
そう言って根元へ手をついた。
腕に力を込める。
身体は少しも持ち上がらなかった。
男は責めなかった。
「歩けない」
淡々と事実を訂正する。
リュシエナは反論しようとしたが、唇が震えるばかりで声にならない。
彼女が目を伏せたのを待ち、男は片腕を膝の下へ、もう一方を傷へ触れないよう背の上部へ差し入れた。
身体が雪から浮く。
驚くほど揺れなかった。
硬い胸へ抱き上げられ、黒い外套の内側へ包まれる。男の体温は、先ほどの黒狼の吐息と同じほど熱かった。
恐怖は消えていない。
それでも、ローディクに月環を外された時より、刺客に追われた時より、呼吸が深く入った。
「どうして、私を……」
問いかける声は、男の胸元へ吸い込まれた。
暗い金色の目が彼女を見下ろす。
「死ぬ許可を出した覚えはない」
「私は、あなたの許可を受ける者では……」
「ならば、生きる方を自分で選べ」
言葉は冷たいほど簡潔だった。
けれど、彼の腕は背の傷を圧迫しないよう、僅かに位置を変えている。
リュシエナは返事をしようとした。
その前に、遠くから複数の黒い影が駆けてきた。
雪を蹴り上げ、木々の隙間を縫うように進む黒狼たち。
先頭の一頭が数歩手前で急停止する。黒い毛並みが沈み、骨格が変わり、人の姿へ戻っていく。
現れた男は雪の上へ片膝をついた。
「ヴァルゼイン陛下。ご無事で」
陛下。
その呼び名が、薄れゆく意識の中へ落ちた。
黒曜狼国《ヴァルグラッド》を統べ、全ての群れから月を喰らう王と恐れられる男。
黒狼王、ヴァルゼイン・ノクスハルト。
自分を抱いている男が、敵国の王。
理解した途端、張りつめていた意識が深い闇へ沈み始めた。
最後に感じたのは、遠ざかっていく雪の冷たさだった。
そして、名前を呼ぶ低い声。
「リュシエナ。眠るな」
命令する声とは裏腹に、頬へ触れず熱を確かめようとする吐息だけが、ひどく近くにあった。
黒森の旧祭壇でヴァルゼインと別れた翌夜、レグナードは王都から北西へ二日ほど離れた古い狩猟館にいた。グレイヴァルが生きていた頃には王族の冬狩りに使われていた建物だが、反乱後に王家の所有記録から外され、今では街道図にも載っていない。暖炉には火が入っているものの、長年使われていなかった石壁には湿った冷気が染みつき、窓の外では細かな雪が森を白く埋めていた。レグナードは卓上へ広げた黒曜王国の地図を眺めながら、旧祭壇で見た銀狼の女の言葉を思い返していた。《私は連れてこられたのではありません。自分で来ました》あの一言だけが、妙に耳へ残っている。王の運命の番として守られ、黒曜城へ囲われている女だと思っていたが、実際のリュシエナは想像より扱いにくかった。ヴァルゼインの後ろへ隠れず、前へ出て庇わせることもせず、同じ位置へ立った。番拒みの薬まで飲み、それでも一緒に旧祭壇へ来たという話が嘘でなければ、月神殿から教えられてきた《銀狼と黒狼》の形とも少し違っている。扉が三度叩かれた。「入れ」現れたのは、白い祭服の上へ旅用の外套を羽織った男だった。年齢は四十を少し越えたほどで、月神殿の高位神官に共通する銀糸の帯を腰へ巻いている。名はセルディオ。月祠長オルディスの側近であり、レグナードが少年だった頃から何度も月神殿の意思を伝えてきた男でもあった。「レグナード殿下」その呼び方に、レグナードは片眉を上げた。「まだ殿下か。お前たちの話では、俺はいずれ王になるはずだっただろう」「王位を取り戻されるまでは、殿下でございます」「便利な言葉だな」セルディオは皮肉へ反応せず、卓上へ細長い箱を置いた。封は月神殿の白蝋で閉じられている。レグナードはすぐには触れず、椅子へ深く腰掛けたまま相手を見た。幼い頃から、こうだった。父グレイヴァルは正統な黒狼王になるはずだった。ガルディオンに奪われた。反乱ではなく、王位を取り戻す戦いだった。父を殺した王家は簒奪者であり、その血を継ぐヴァルゼインから王冠を奪い返すことこそ、息子であるレグナードの使命だ。物心がついた頃から。何度も。何度も。そう教えられた。母と逃げた村から村へ移り、名前を変えるたび、レグナードは自分が何者なのか分からなくなった。それでも夜になれば、母は首から外した幼児用の銀首輪を見せ、「これはあなたが王家の子だった証よ」と言った。
月祠長オルディス・メルカーンが黒曜王都へ入ったという報告を受け、ヴァルゼインとリュシエナは予定より早く城へ戻ることになった。先ほどまで市場の甘い焼き菓子や、子どもから渡された雪の狼について笑っていた空気は消え、少し先では護衛が周囲を警戒しながら道を開いている。それでも二人の歩幅だけは急ぎすぎず、城下から王宮へ続く坂道を並んで上っていた。オルディスが何のために来たのか、銀狼の封印についてどこまで認めるつもりなのか、考え始めれば聞きたいことはいくらでもある。それなのにリュシエナの胸には、先ほど川辺で過ごした静かな時間の余韻がまだ残っていた。ヴァルゼインも、すぐには政務の話をしなかった。王都へ入った月神殿一行については先行した伝令とセイグが情報を集めており、城へ戻るまでにできることは少ない。普段ならその短い時間すら使って警備配置や面会順を考え始めそうな男が、今日は何度か口を開きかけては閉じていた。共鳴を通して黒狼の気配が僅かに揺れるのを感じても、リュシエナはそこから答えを読み取ろうとはしなかった。七日間、獣魂に頼らず相手を見ることを覚えたからこそ、今もヴァルゼイン自身が言葉にするまで待ちたいと思えた。王宮の外壁が見え始めた頃、ヴァルゼインが不意に足を緩めた。「リュシエナ」「はい」呼ばれて横を見ると、暗い金色の瞳がまっすぐこちらへ向けられていた。戦況を確認する時とも、監査の判断を求める時とも違う視線だった。何かを決めさせるような圧力はない。それでも、これから尋ねられることが軽い話ではないのだと分かり、リュシエナも自然に歩みを少し緩めた。「俺をどう思っている」あまりにも直接的だった。リュシエナは言葉を失った。「……急ですね」「そうだな」「何か理由があるのですか」「ある」ヴァルゼインはそこで一度前を向いた。雪を踏む靴音が二人分、一定の間隔で続く。少し離れた護衛たちは会話が聞こえない距離を保っており、城門までの道には他の通行人もいなかった。「昨日、お前が俺とまた城下へ来たいと言った」「言いました」「今日も、会えば嬉しいと思った」リュシエナが目を瞬く。「それは……共鳴で分かったのですか」「違う」即答だった。「顔を見た」胸の奥が少し熱くなる。「俺も、同じだった」ヴァルゼインは淡々と続ける。「それで、自分が何を望んでいるのかを考えた」
ヴァルゼインに休日がないことへ気づいたのは、リュシエナが王宮の冬季薬糧配給記録と、王付き厨房の食材使用記録を照合していた時だった。本来なら、王の食事そのものを監査する必要はない。けれど冬至祭の暗殺未遂以降、王へ出される食材と薬については、異常な増減がないかだけ定期的に確認することになっていた。その途中、厨房側の帳簿へ残された食事の受領時刻が不自然に偏っていることへ気づいた。朝食が昼近くまで手つかずの日、昼食と夕食をまとめて取った日、夜半に冷えた食事だけを運ばせた日が、あまりにも多い。「これ、いつからですか」リュシエナが帳簿を持ったまま尋ねると、厨房を預かる老女は困ったように眉を下げた。「陛下が即位されてから、ずっとあんなものですよ。食べることを忘れる、寝ることを忘れる、休むよう申し上げれば仕事が残っていると仰る。先代の頃から仕えておりますが、あれほど扱いにくい王様も珍しいです」即位してから。十八歳で王位を継いだ。ヴァルゼインは現在二十八歳だから、十年。リュシエナは帳簿を閉じた。その日の午後、王の執務予定表まで確認して、さらに眉間へ皺を寄せることになった。評議会、軍務報告、司法裁可、各領からの請願、外交書簡、夜間の警備確認。その間に訓練と食事を無理に挟み、深夜にも翌日の資料へ目を通す。休息として記載された日はあるものの、その欄には決まって別の仕事が書き足されていた。完全に政務から離れた日は、少なくとも過去一年間には一日もない。リュシエナは予定表を抱えて、そのまま王の執務室へ向かった。「休んでください」開口一番そう言われ、ヴァルゼインは書類から顔を上げた。「何だ」「休んでください」「聞こえている」「では休んでください」ヴァルゼインは一度、目の前の書類へ視線を落とした。「必要ない」「必要です」「監査官の権限外だ」予想していた答えだった。リュシエナは持ってきた帳簿を机へ置いた。「では、薬糧監査官として申し上げます」ヴァルゼインの眉が僅かに動く。「睡眠不足と不規則な食事による判断能力低下は、王宮全体の運営上の危険です。陛下が判断を誤れば、薬糧配給にも影響します」「無理がある」「ありません」「ある」「ネルーヴァ様にも確認しました」そこで初めて、ヴァルゼインが完全に筆を止めた。扉の近くで資料を整理していたセイグが、
共鳴が戻った翌朝、リュシエナは目を覚ますより先に、遠くにいる黒狼の気配を感じ取った。西棟のさらに奥、王の私室ではなく執務区画の方角に、低く安定した熱がある。七日間、それがなくても一日を過ごせることを知ったはずなのに、戻った気配を見つけただけで胸の奥の銀狼が嬉しそうに身を起こした。リュシエナ自身も、少しだけ口元が緩むのを止めなかった。以前なら、この反応が自分のものなのか獣魂のものなのかを考えるだけで不安になった。けれど番拒みの薬が効いていた七日間、銀狼が静かでもヴァルゼインのことを考え、会えば嬉しくなり、彼の言葉を聞きたいと思った。その事実はもう消えない。共鳴が戻った今、二つの気持ちが同じ方向を向いているからといって、それを疑い続ける必要はないのだと少しずつ分かり始めていた。午前の仕事を終えた頃、王付きの侍従が短い書面を持ってきた。内容は面会の申し入れで、場所はネルーヴァの治療室に隣接する小応接室と指定されている。文末には《身体と獣魂に関する話をしたい。ネルーヴァにも同席を頼んだ》とあり、リュシエナは何を話すつもりなのかおおよその見当がついた。指定された時刻に応接室へ入ると、ヴァルゼインはすでに窓側の椅子へ座っていた。ネルーヴァは卓上へ三冊の古い記録を並べ、いつものように面倒そうな顔をしている。共鳴が戻ったせいで、部屋へ入った瞬間に黒狼が銀狼へ意識を向けたことまで分かったが、ヴァルゼイン本人は立ち上がらず、リュシエナが自分で席を選ぶのを待った。「話とは何でしょう」向かいへ座って尋ねると、ヴァルゼインは遠回しにせず答えた。「番契を結ぶつもりはあるか」リュシエナはすぐには答えなかった。黒狼がその言葉へ強く反応し、胸の奥の銀狼も一瞬で身を乗り出したのが分かる。互いの獣魂だけなら、答えは最初から決まっているのだろう。近づきたい、結びたい、相手を自分の番として確かな形へしたいという欲求が、共鳴を通して鮮明に伝わってくる。それでもヴァルゼインは、何も促さなかった。「これは求婚ですか」「違う」「王命でも?」「違う」「番だから当然に結ぶものだと?」「それも違う」そこでリュシエナはようやく息を吐いた。聞かれているのは承諾だけではない。拒否も、保留も含めて、自分で答えを出すための確認なのだと分かった。「結んだら、何が変わりますか」ヴァルゼインの視線がネル
《番拒み》を飲んでから七日目の朝、リュシエナは目を覚ますと同時に、自分の胸へ手を当てた。まだ静かだった。銀狼は確かにそこにいるが、ヴァルゼインへ伸びていた共鳴だけは薄い膜の向こうへ隠れたままで、彼が王宮のどこにいるのかも、眠っているのか起きているのかも分からない。七日前にはその空白が胸を抉るように感じられたのに、今はもう、この静けさの中で自分の感情を探すことにも慣れていた。会えなくても一日は過ごせるし、共鳴がなくても仕事はできる。それでも、今朝最初に考えたのが彼のことだった事実を、リュシエナはもう否定しなかった。午前中、ネルーヴァの診察を受けると、治療師は薬瓶と脈拍記録を見比べながら眉を寄せた。「今日の夕刻から夜にかけて、ほぼ確実に切れるわ」「時間までは分からないのですか」「体格と獣魂の強さで差が出るもの。あなたは完全変身したばかりで銀狼も強いから、普通の例をそのまま当てはめられない」ネルーヴァは記録を閉じると、今度は少し厳しい目を向けた。「だから、戻る瞬間だけ二人を分ける」リュシエナは思わず顔を上げる。「会わない方がいいのですか」「会うなとは言ってない。戻る瞬間に隣へ置かないだけ」薬によって七日間弱められていた共鳴が一気に戻れば、銀狼も黒狼も反動で強く相手を求める可能性がある。完全変身後のリュシエナは以前より獣魂との境界が薄く、ヴァルゼインもまた黒狼の欲求を抑え続けている。その二頭を目の前へ置いた状態で共鳴だけを突然戻せば、理性より先に身体が動く危険があると説明された。「別々の部屋で待って、戻ったことを自分で認識する。それから、会いたいなら出ればいい」ネルーヴァの言葉へ、リュシエナは静かに頷いた。「陛下も?」「同じ説明をしたわ」「何と?」「分かった、ですって。いつも通り」少しだけ笑いそうになる。姿を見なくても、その返事だけは想像できた。午後になると、王宮西側にある二つの静養室が用意された。長い回廊の両端近くに位置し、互いの部屋は扉を開けても直接見えない。間には人の歩幅で五十歩以上あり、ネルーヴァと数人の治療師が中央付近で待機することになった。扉には鍵を掛けない。獣魂を閉じ込められたと感じさせないためであり、出るかどうかも本人たちへ委ねられていた。部屋へ入る前、リュシエナは回廊の反対側を見た。ヴァルゼインはもう自分の部屋へ
王家文書庫で見つかった《銀狼が再び生まれれば、黒狼王家の封じられた契約が開く》という一文は、その翌日から調査の中心になった。ガルディオンが月神殿へ銀狼の封印を黙認した時代より、さらに古い記録であり、ヴァルゼインが生まれる前どころか、先王自身がまだ幼かった頃に書かれた報告書だった。問題は、その文中にある《封じられた契約》が何を指すのか、現在の王家文書官ですら即答できなかったことだった。法的な契約を示す文書なら索引に残っているはずなのに、その名に対応する記録が見当たらない。「王家の契約なら、なぜ索引にないのですか」リュシエナが尋ねると、古文書官は困ったように白い眉を寄せた。「契約という語が、現在使われている法的な意味とは限りません。古代語では、盟約、誓約、祭祀、共同統治まで同じ語で記される場合があります」「つまり、名前から探しても見つからない」セイグが言うと、古文書官は頷いた。「ああ。関連する時代を広げるしかない」それからさらに二日、王家文書庫だけでなく、旧祭祀記録、黒曜城建設以前の群れの記録、王都地下神殿から移された石板の写しまで調べることになった。リュシエナは朝から夜まで机へ向かい、銀狼、白銀、月狼、鎮魂、共鳴という語が出るものを一つずつ拾った。ヴァルゼインも王務の合間に加わり、セイグとエルグラドが年代と出所を整理する。古文書は現在の文字と形が違ううえ、同じものを指す言葉も時代ごとに変わるため、わずかな記述を辿るだけでも何冊もの記録を照合しなければならなかった。三日目の午後、最初に見つけたのは王家の記録ではなく、現在の王都より北にあった古い集落から移された石板の写しだった。文字は摩耗し、半分ほど欠けていたが、中央には二頭の狼が向かい合う図が残されている。一頭は黒、もう一頭は銀で、その間には二つの月が刻まれていた。片方の月が欠け、もう片方が満ちる形は、現在の黒曜王家にも月神殿にも残っていない意匠だった。「双月」リュシエナが小さく読むと、古文書官が隣から頷いた。「《双月盟約》です」その名を口にした瞬間、胸の奥の銀狼がはっきり反応した。番拒みの薬がまだわずかに効いているため、ヴァルゼインの黒狼の気配は薄い。それでも銀狼自身が、知らないはずの言葉へ耳を立てるように意識を向けた。懐かしいものを聞いた時のような反応に、リュシエナは胸へ手を当てた。「知